ポール・スプーナ-は1948年に英国プレストンに生まれた美術家で、ランカスター大学を卒業後、古代ギリシャ哲学をベースとする独自の視点をもとに日常世界の不条理を、皮肉とユーモアをこめて作品表現を行っています。
愛嬌のある作品には、見た目とは裏腹に深いテーマ性が込められ、またカラクリの仕組みにおいては緻密で高度な技術が駆使されており、年齢性別を問わず観る者を楽しませる魅力にあふれています。
の作品に見られるカラクリの機械的な仕組みは一見単純に見えますが、よく観察すると極めて合理的にできていることに気づかされます。しかも、可動している作品を眺めているとなぜかしら私たちの内に「忘れかけていた時や物に対する愛着心」のような気持ちが湧きあがってきます。 多様な魅力を秘め、多くの示唆を与えてくれるユニークでアイロニックなカラクリの動きをモーレンの展覧会で楽しんでいただけば幸いです。
ポール・スプーナーの美術哲学
ポール・スプーナー(1948年、イングランド・プレストン生まれ)は、
小さな機械の動きに哲学的な存在感を与えるアーティストである。
ランカスター大学で美術を学んだ後、スプーナーは古代ギリシア哲学に根ざした省察を基盤に、独自の制作活動を築いてきた。
穏やかな(場合によっては穏やかでもない)ユーモアと、人間に向けられた温かく深いまなざしを通して、彼は日常に潜む不条理や、人間の本質的に備わる「愚かさ」を描き続けている。
彼の作品は、ときにブラックユーモアだと誤解されることがある。
しかしそれは「的外れな理解」である。
スプーナーのユーモアは、決して他者を嘲笑するものではない。
むしろ人間の不完全さを共感といたわりをもって包み込む、穏やかな心の表れとみるべきであろう。
彼が生み出しているのは、アイロニーというよりは「機械仕掛けの諧謔(ウィット)」である。
そのオートマタの動きの中で、スプーナーは、人間の愚かさと尊厳が並び立つ姿を、正確に映し出すことに成功している。
彼の作品が動き始めるとき、私たちは忘れがちな”ある真実”を思い出す。
それは、「不完全に生きることの美しさ、そして微笑みをたたえながら生き続けることの尊さ」である。
スプーナーが、マシーンと呼ぶ「自動人形」作品と描画は、哲学装置として機能する。
それは教え諭すためでも、裁くためでもなく、私たちの内にひそやかに眠る「人間らしさ」を目覚めさせるために存在している。
彼が生み出しているのは、アイロニーとも異なる「機械仕掛けの諧謔(ウィット)」である。
この言葉は、遊び心ある知性と、人間の本性に対する温もりとを併せ持つユーモアを指している。
そこにあるのは、嘲笑ではなく、まさしく諧謔(ウィット)なのである。

マット・スミス
マット・スミス(1965年、イングランド・レスター生まれ)は、精緻(せいみつ)で思りょ深い機構設計を通して、ユーモアに物質的なかたちを与える作り手である。
主に木と金属を素材とし、スミスは「動きそのもの」を表現手段とする、独自のオートマタ制作のアプローチを築いてきた。
1980年にオートマタの制作を始めて以来、彼は、丹念に設計された機構が、意図を感じさせながらも、どこか戯れる(たわむれる)ような身振りを生み出す可能性を探求してきた。
1986年、スミスはポール・スプーナーとともに〈フォーティーン・ボールズ・トイ・カンパニー〉を共同設立する。
それは一般的な「会社」という形態ではなく、アイデアと技が密接に結びついた、共同制作の場、すなわちアトリエとして機能していた。
このパートナーシップにおいて、スプーナーが概念や物語の構想を担い、スミスはそれらを機構として実体化し、形にする役割を果たしたのである。
スミスのオートマタは、動きすぎないことを知っている美しさがあり、それが彼の持ち味の柱になっているようだと私は考えている。
その動きは過剰でなく、聡明(そうめい)さ、タイミング、そして精度によって作品に意味を与えている。
高度な機構を自在に操る彼の手腕は、複雑なアイデアをあたかも容易なもののように見せ、鑑賞者を自然と作品へ引き寄せ、より深い思索へと導いているようだ。
「ォーティーン・ボールズ・トイ・カンパニー」での協働を通じて、スミスは、スプーナーの作品における「機械が発することば」とも呼ぶべきものを形づくるうえで、不可欠な役割を担ってきた。
哲学的な思考を、静かに想像力を刺激する、触れることのできる動くかたちへと変換する。
その要となった存在が、マット・スミスなのである。
