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古代エジプト時代にミイラ職人が、ミイラづくりをする際、アヌビスの仮面をかぶっていのだそうです。
ミイラ職人が仮面をとると...そこにはミイラになったアヌビスがいましたというストーリー。
「ミイラ取りがミイラになる」の諺(ことわざ)が作品制作上のベースとなりました。


詳しい解説を下に記しました。
​よろしければ、お読みください。



古代エジプトの暗い作業場。
香油と樹脂の匂い、乾いた包帯の擦れる音。

静寂の中で、一人のミイラ職人が黙々と施術を行っています。

それは単なる処置ではありません。

永遠の命へと送り出すための神聖な儀式なのです。

 

職人の顔には、ジャッカルの頭を持つ死者の守護神アヌビスの仮面。
人間が神の姿を借り、神の役割を演じます。

この行為は、死と再生の境界に立つ者だけに許された宗教的変身でもあったようなのです。

 

当時、ミイラ職人(ヘリ・セシェタ)は儀式の最中、アヌビスの仮面を着用していたと伝えられています。
ポール・スプーナーは、この歴史的事実を入口に、私たちを一つの奇妙な思考の迷路へと導きます。

ハンドルを回すと、仮面を被った職人がゆっくりと手を下へと運びます。

そして神の顔が取り去られた瞬間
そこに現れるのは人間の素顔ではなく、

包帯で巻かれ、すでにミイラと化したアヌビス自身の顔でした。
 

ここで日本の諺「ミイラ取りがミイラになる」が、単なる言葉の遊びではなく、
ひとつの視覚的に私たちの前に現れます。

死者を導く側であったはずの存在が、いつのまにか死の側へと取り込まれている。
スプーナーは、役割を反転させ、主体と対象の境界を曖昧にしたのです。

 

しかし、彼がが提示するのは単純なアイロニー(皮肉)ではありませんでした。
むしろ、人間が世界を理解し、制御し、意味づけようとする営みそのものに潜む、
滑稽さの提示です。

 

私たちは日々、様々な仮面を身につけて生きています。

そして多くの場合、それを仮面だとは思っていません。

 

職業、信念、責任、立場。

それらは世界と関わるための必要な装置であると同時に、私たち自身を形作る力でもあります。

 

仮面を長く被り続けたとき、それはまだ仮面なのでしょうか。
あるいは、仮面こそが本当の顔だったとしたら…

 

マット・スミスの精緻な造形と、スプーナーの知的で詩的な構成によって生まれた
このオートマタは、笑いと不安、理解と違和感が同時に立ち上がる瞬間を観る者に
与えています。

 

それは単なる動く仕掛けではありません。
木の温もりに息づくように作者の知性が、機構(メカニズム)を通じて私たちの思考を
揺さぶり始めます。

 

そして私たちは気がつきます。

笑われているのは作品ではなく、
もしかすると私たち自身なのではないか、と。

 

まさに「機械仕掛けのジョーク」という名の、至高の芸術体験と言えるでしょう。

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